きもちよく晴れた爽やかな朝だった。ぺたぺたと裸足でキッチンにはいり、よく冷えたアイスキャンディーを冷蔵庫からとりだして口にいれる。ひんやりとした感触、寝起きの肌にのこる熱っぽさがやわらぐようだ。庭にとびおりてホースの蛇口を全開にする、きらきらとした放射線のアーチを描いて草にも花にも、命のような水があたえられてゆく。 ふう、とみあげればどこまでも青い、青い、紺碧の夏空だった。 両親はおでかけ、夏休みの宿題もぜんぶ終わり、そしてテニス部の練習もきょうはお休み。いうことのない、あたしだけの、まっさらな自由な一日だ。デニムの短パンからのびた、日焼けした2本の足。流れるホースの水が、その足元にちいさな川をつくって優しく土にしみこんでゆく。 ぽとり、とアイスの水滴が、甘くおちた。


鼻歌まじりに植物に水をかけていたら、石垣のむこうから白い毛先が見えた。「猫?」と思ったけれど、それにしては歩みに迷いがない、似ているけれどちがう。ようやく琥珀色の瞳がひょこっと覗いたとき、すずしい人間の男の子の声と、アイスを口につっこんだあたしの声がパッとかさなった。


?」

「ひおう!(仁王!)」


「食ってからしゃべれ」と苦笑まじりにわらって、仁王はあたしの家の石垣から顔をのぞかせた。アイスを口からとりだして聞く。


「すっごい偶然だね」

「ここお前さんちだったんか」

「うん」

「聞き覚えのある鼻歌が聴こえたもんじゃから覗いてみれば……」

「え?あたし、そんなに大きな声で歌ってた?」

「いんや、音痴じゃったから気になった」


眉根をしかめたあたしにククク、と笑って仁王はものめずらしげにうちの庭の伸びっぱなしの草木をながめた、そのまなざしが薄く、何かを物憂げで、まあ、つまりはいつもの仁王なのだけれど。そのいつもの風体にこの夏の焼くような日射しが危うく映る。白い顔に、汗の一滴も浮かんでいない。


「よってく?アイスあるよ」

「ああ…」

「でも、もしどっか行く途中ならー」


ふいっと視線をそらして、真顔にもどった仁王。数秒後、おもむろに口の端をあげて「……そうじゃな、ご相伴に預かろうか」と目を伏せて誘いに応じた。


「うん!玄関からまわっておいでよ」

「おう」



突然のめずらしい来客にあたしは気を良くしながら、冷蔵庫までぱたぱたと走る。こういうサプライズは素直にうれしい、日常の中におとずれる非日常。それにしても仁王はどこへ行こうとしてたんだろう?うちの近所にあると言えば、学校だ。でも今日は部活はない、ただぷらぷらしていただけ…………この暑い日に? 磨りガラスの窓越しに静かに玄関からはいる仁王が見える、その姿はやはりどこか猫のようだった。 気に入った寄り道先を見つけた、散歩中の白い猫。アイスと一緒に冷たい麦茶をそそいだコップも持っていく。


あたしが戻ってみれば、庭にちいさな虹ができていた。



「きれい」

「いーじゃろ?」


ホースを手にして、ニッと仁王は笑った。ちょっと得意げ、褒められたこどもみたいな笑顔。人工的につくられた可愛い虹は、水の反射にきらめいて輝いていた。アイスをわたせば、器用に歯と骨張った片手で包装をあけた。


「おっ、懐かしいな、これ」

「でしょ?わって食べるやつ」

「昔よう食った」


二本の棒にささった真ん中でパキンとわるソーダ味のアイス。ふたりでわけて食べるタイプの。仁王には新しいのをまるごと全部あげて、あたしは冷蔵庫から朝の残りの一本をとりだして、口にいれていた。


「これ、一本目を食ってるうちに二本目がすぐ溶けるんじゃよ」

「だよねー、がんばれー」

「お前さん、それ……」

「二本目だよ?」

「はやっ」


丁寧にふたつにわって仁王はアイスを口にいれる。ふたりで何気ない話や、あほな笑い話や、多くの部活の話をしながら、8月の空をながめた。しゃりしゃりと氷の粒を噛みくだく音が心地よくひびく、アイスは甘く、おいしい。

うちの庭の石づくりの灯籠に腰をおちつけた仁王の姿は、どことなく儚げで、ひっそりと木々の影にたたずむ幽霊のようだった。葉の陰影が細面の顔にしらじらと映り、瞬間、ソーダの気泡が舌のうえではじける…………あれ?なんだろう、なんだかこのひと、薄い。違和感を感じたあたしは、目の前でアイスをもつ左手の薬指にいつもあったはずの光がない事に気がついた。きれいな細い銀色、白い輪の痕だけが今では名残のようにのこっている。不自然にならないように前をみてうっすら、と夏休み前にブン太がもらした言葉が頭をかすめた。



「仁王と彼女、もうヤバいらしいー」



ちりん、と頭上で風鈴が鳴った。



「溶けてるよー、仁王」

「わかっとる」

「蟻がむらがってる」

「げ」


土にたれた二本目のアイスの水滴に、黒色の粒がざわめいている。溜息のあと、仁王がしかたなさそうに言った。



「もともと、ふたりで食うもんじゃからな」



しん、とした心の奥で、思った。ああ、もう仁王には今、このアイスをわけて食べるひとがいなくなってしまったんだな、と。そして不思議と、仁王の為でもなく、そのいなくなった相手の為でもなく、ただ“もう誰かと何かをわけられない”という事実を、ことさら悲しく思った。このひとはとても繊細な手つきで、アイスをわれるのに。



ちりん、と頭上で風鈴をもう一回鳴らして、風がやんだ。
蝉の声がうるさく、隣で仁王の白い毛先がゆれる。




「蟻、すっごい元気だね」

「どんどん甘いのにむらがっとるのう」

「うん」

「お?あのでかいの丸井じゃなか?」

「へ?」

「横の茶色のヤツの、ぶんどってる」

「あ、ほんとだ、ジャッカルかわいそ」

「んで、その奥の隊列をただしてるのが真田」

「うっわ、似てる」

「ちょっと離れて様子を見守っとるのが柳とみた」

「ちょ、やめてよ」

「さてさて、幸村はどこかなっと……」

「うちの庭にテニス部飼いたくないって」



笑って仁王はたちあがり、パンパンとジーンズについた土ほこりをはらって「ごちそーさん、もう行くわ」と言った。 とっさに(どこへ?)とうっかり目で問いかけてしまったあたしに、心配するなとでも言うように「ガッコ、野暮用じゃ」と仁王はつけたした。一瞬、ふせたその視線が自分の左手の白い痕に落ち、同時にあたしの中で何かがちくり、と痛んだ。日焼けしにくい肌だ…………なのに、とったらその痕だけが残るほどきちんとつけていたんだ。きっと、たぶん、その想いの相手に、これから仁王は会いにいく。深くもぐる前、すーっと長い息継ぎをしなければいけないように、仁王がうちの家にたちよった理由がなんとなくわかった。


「気をつけてね」

「おう」


玄関先まで出て、細い背中が通りに消えるのを見送る。すこし猫背の、もうだいぶ見慣れた後ろ姿。けれど、今日だけは、この朝だけは、先程の一瞬から、もうおなじには見えなくて。いつもよりずっとちいさく、熱にうかされたアスファルト上で、今にもゆらりと揺れて消えてしまいそうだった。


「仁王……」


ぎゅっ、と服の端をにぎりしめて、何かを言わなくてはいけない焦燥感にあたしはかられる。どうしよう、なんでもいい、何かを。ちょっとだけ、何かを“今”言わなくてはー



“今”





「そ………そ…そ………」




「そうめん!!!!!!!!」





ハ?という顔をして仁王はふりかえった。


「そうめん食べない!?うちお中元でいっぱいもらったんだ。お昼それにしようと思ってて……帰り道こっちでしょ?いっぱい茹でるからさ!」



「仁王!そうめん食べよう!」



勢いよく言ったあたしを、呆気にとられたように仁王は見つめた。いつもの読めない冷めた視線ー………それがだんだんと和らいで、数秒後くすり、と声がもれて「食ってばっかじゃな」と、悪戯ぽい笑顔がのぞいた。


「いいな、そうめん」

「でしょ?よばれていきなって」

「そうしようかのう」

「うん!」

「ああー………でも」



一瞬、学校の方角をながめて、仁王は言った。



、すまん、もしかしたら俺戻らんかもしれん」



きれいな琥珀色の瞳が見つめる先がわかったような気がして、あたしは言う。



「だいじょぶだよ、あたしいっぱい食べるし、多めに作っとくから。いつでも良い、気がむいたら……………」



「帰っておいで」



二ヤリ、と口の端をあげて仁王は「ありがとーさん」と言った。

あたしはホッと胸をなでおろす。
ああ、いつもの笑顔だ。
彼らしい、頼もしい、とんでもない詐欺師の。
ふりかえらずに細い背中が道のむこうに消えてゆく。
先程とはちがってその足どりは、しっかりとしていて、力強かった。




ふう、と一息ついて庭にもどる。来客が去ったうちの庭はいつもの静けさをとりもどして、四方にのびっぱなしの草木に点々、とあわい水滴が光る、足元にあつまっていた蟻たちはもう巣にもどったようだ。麦茶のグラスとアイスの棒をかたづけながら、ぐるりと庭を見まわして、それでもついさっき誰かがこのちいさな庭で可愛い虹を作ってくれたんだな………と思って、あたしの心はほんのりと暖かくなった。


キッチンに入って冷蔵庫から、トマトやきゅうりやみょうがをドカドカと取り出す。ふたり分をテーブルの上において、すこし考えてからひとり分を冷蔵庫に戻した。

たぶん、仁王はもどってこないだろうー

あの最後に見た仁王なら、彼なら、びっくりするような仕掛けでもって、失ったすべての光を左手にとり戻すだろう。信じられないような眩しさで。この夏すらをもカッコよく騙してー、………でも、それでも、もしあっさり負けてへこんじゃっても、この暑い最中、どこかの家で冷たいそうめんが待っている、という事はすてきな事のように思えた。


スパッとまな板の上で、トマトがきれいに半分に切られる。鮮やかな赤い断面を手にとって、まだ誰ともわけなくてもいいあたしはそのふたつともにかぶりついた。













100712